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アニェス・ド・フランス(Agnès de France, ギリシャ語:Άννα της Γαλλίας, 1171年 - 1204年以後)は、東ローマ帝国皇帝アレクシオス2世コムネノスの皇后。のちアンドロニコス1世コムネノスの皇后。 == 最初の結婚 == 父はフランス王ルイ7世、母は3度目の王妃アデル・ド・シャンパーニュ。同母兄にフィリップ2世がいる。 1178年、聖地からの帰途にコンスタンティノープルを訪れた、フランドル伯フィリップに、東ローマ皇帝マヌエル1世コムネノスは、ルイ7世の姫を嫡男アレクシオスの妻に迎えたいと切り出した(1147年の第2回十字軍のおり、ルイと当時の王妃アリエノール・ダキテーヌと面会していた)。マヌエルは「ローマ帝国」の地位を争うドイツ・神聖ローマ帝国に対抗するため、同盟するならフランスがふさわしいと考えていたのだった。1178年の冬から翌年にかけて、皇帝の大使たちがフランスを訪れ、婚約が整った。 生来の結婚が許嫁の家族に持ち出されて成立するのは、当時珍しいことではなかった。アニェスは、リチャード1世の許嫁として9歳でイングランドへ渡った異母姉アリースと、この時会ったことがなかった(この結婚は破談となる)。アニェスはモンペリエをたち、1179年の復活祭に、コンスタンティノープルへ向けて出航した。途中、ジェノヴァで小型艦隊は5艘から19艘に増えた。 1179年の夏の終わりに、コンスタンティノープルへ到着し、アニェスはにぎやかな祝いの行事に迎えられた。歴史家ギヨーム・ド・ティールによれば、この時のアニェスは8歳で、婚約者のアレクシオスは13歳だったというが、実際の彼は10歳だった。もしアニェスが本当に8歳だったとすれば、12世紀の解釈として、結婚年齢には3歳幼かったことになる。 1180年3月2日、挙式は大宮殿で行われた。アニェスはギリシャ風にアンナと改名した。この挙式のほぼ1ヶ月後、アレクシオスの異母姉マリア・コムネナとモンフェラート侯子ラニエリの挙式が、これも盛大にとりおこなわれた。 同年9月、マヌエル帝が崩御し、アレクシオス2世コムネノスが即位した。彼はあまりに幼く、統治を助けるものはなかった。皇太后マリアが、マリア・コムネナやアレクシオス帝以上に、国事に影響を及ぼした。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アニェス・ド・フランス (東ローマ皇后)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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